感染拡大、土石流、それでも祝祭オリンピック

7月6日、オリンピック日本選手団の壮行会・結団式が行われ力強い宣言が行われた。聖火リレーも着々と進む中、小旗を振る市民が並ぶ。勇ましく、華々しく、世界平和を目指す人道に基づく意義あるオリンピック。こんな様子を目にして筆者は、七十数年前の特攻隊の結団式、出征兵士を送る市井(しせい)の人々をイメージしてしまう。出来ることなら今からでも五輪は中止・再延期して、すべてのリソースを熱海へ注いでほしい。冷たい土砂・ガレキに埋もれたまま人間らしく食うことも排泄もままならない人たちを横目に、お祭り騒ぎをする気にはなれない。

東京ウイルス市場

6月22日夕刻過ぎ、東京五輪の開催都市であり主催者でもある東京都のトップが、過労と思われる理由で一週間政務を離れると発表した。激務が続いていたことは推測できるが、なにが主催都市のリーダーをここまで追い詰めたのかも気になる。もう一つ、筆者が皮肉を込めて表現していたKYOKO2020(強行2020)によって、日本がウイルス市場の役割を果たし、パンデミックを再加速させてしまう可能性も気になる。その際、日本から引き揚げて帰国しようとする選手や関係者を各国が一時的に拒否するような事態となれば、病原体や患者は日本国内に封じ込められることになる。

ウイルスと宗教

昨今はウイルス、ワクチン、免疫などというものについて、素人でも少しは勉強せざるを得ないような状況になってきている。そんな中で気づくことは、科学と宗教が必ずしも対立する概念ではないと言うことだ。また、科学に似非(えせ)科学があるように、宗教にも首をかしげたくなるものが存在することに共通点も感じる。今回はコロナ禍を機に誰もが多少なりとも考え始めている「人間とは何か」といったようなことを、あれこれと考えてみる。

そして悲しき国民A

ほぼ1年半が経過し、少なくとも2021年中は続きそうなコロナ禍。そのコロナ禍に関連した、気持ちが「ほっこり」とさせられるニュースやちょっとした美談などに、つかの間の癒しを感じることがある。しかし知らず知らずのうちに、ある方向へ持っていかれているかもしれないという感覚も、頭の隅には置いておきたい。

東京五輪は「令和のインパール作戦」

たとえ緊急事態宣言下であっても東京五輪は実施する、とIOCコーツ調整委員長が断言した。IOCの腹の底に「刈り取り」が済んだ後で極東の有色島民がどうなろうと知ったことではない、という感覚が潜んでいるのかどうかはわからないが、少なくとも日本の政府も経済界も「強行2020五輪」を表明している。「ほら、やっぱり日本人って歴史から学習できないヤツらなんだよ」という声が国外から聞こえてきそうだ。

日本は7年間、地球上から消えていた

筆者が以前勤めていた会社に台湾出身の若い女性がいた。あるとき私が知ったかぶりをして「台湾って35年間だったか、オランダ領だったんだよね」というと、彼女はコピー機の前で作業の手を止め、スッと私に向き直って「いいえ、38年間です」とピシャリと断言した。赤面のエピソードではあるが、じつは日本もわずか数十年前、約7年間にわたってこの地球上に主権国家としては存在していなかった。現代日本人は、彼女と同じような態度で外国人に説明できるだろうか。

ツライ記憶は忘れてしまえばいいのか?

日本ではいま、本来ICU(集中治療室)に入るべき人が自宅に留め置かれている。メディアは「自宅(ホテル)療養」などという言葉を思慮なく使っているが、医師による往診や電話診療すらままならないのなら、明白な「放置」ではないのか。われわれ日本人は今回もまた、その犠牲が決定的なまでに悪化しない限り、起きている事の意味も理解できないのだろうか。そしてこの時代に学んだことをいつかまた忘れてしまうのだろうか。