Category: 沈思黙考

スマホ真理教

「スマホ真理教」なる宗教法人など存在しない。……たぶん。しかし筆者がここでいうスマホ真理教は、現代の日本社会においてひたひたと、その信者数を増やしてきているのではないか。信者のうち少なくない人々は、「スマホ様の言うとおりに物事は運ぶ」、「その通りにならないとすれば、そこに関係する他人たちが悪魔であるためだ」、そして「自分自身は決して悪くない」といった思考パターンに侵されている場合がありそうだ。生身(なまみ)の人間が作り出しているはずの現実世界を、ゆがんだスマホ真理教の世界観で生きようとする、一部の信者たちにスポットを当てる。

国葬の見かた、見せかた

元首相の国葬については、周知のとおりその是非が盛んに議論されている。そしてこれに絡んで、関係する様々な論点にも人々の関心が集まっている。今回は、複数の問題が絡みついている元首相の国葬について、あまり細分化せずに考えてみたい。なお、今般のいわゆる「国葬」は、厳密には「閣議決定に基づく『国葬儀』」ということになるのだそうだが、本稿では読みやすさを考慮して国葬と記述する。

銃撃事件と不思議なニッポン

我々はいま、昭和初期の「そこへ傾斜し始める時期」と同じ潮流に立ち会っているのではないだろうか。
国政選挙の期間中に元首相が銃撃されて亡くなるということが、誰にとっても衝撃的であることには違いない。しかし同時に我々は、じつに不思議な状況を目撃していることに気づかなければならない。それは、まだ犯人の動機や背景もハッキリせぬうちに「暴力による民主主義への挑戦である」とマスメディアを中心に気炎を上げだす動き、シロウト目にもわかるほど稚拙な警護・警備体制、そしてなにより、政治家の非業の死と、生前の「実績」を差し引き計算しようとする空気である。さらに我々は「勲章」や「国葬」といったものが、令和のいま、いかなる意味を持ち、どんな作用を及ぼすのかを真剣に考え抜かねばならない。

尼崎市のUSB問題

結論から言えば、未だにこういった「平成前期のセキュリティ意識」が、日本の行政組織、企業組織のごく一般的な実態なのだ。ICT(情報通信技術)は加速度的に進んでいると思われているが、それはあくまでも技術論としてそうなのであって、実際に現場で情報(や情報が記録された物)を取り扱う人間の方は、せいぜい製品の使い方やソフトウェアの操作手順を知っているだけであり、「セキュリティ意識」などと言うものは、ほぼ持ち合わせていないと考えた方が正確である。技術論をいくら論じたところで、取り扱う人間が理解していない限り、この種の事故は今後も起きるだろう。

宗教史で考える聖ロシア

ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。罪なき一般市民に心を寄せることは大変重要だが、数々の被害・災害の延長線上でのみこの悲劇をとらえているだけでは、問題の本質は理解できない。本稿では、昭和以降の日本人にとって世界認識の死角となっている東欧・ロシア世界を、宗教という切り口で考えてみたい。プーチンはここ2年間ほど、中世以降のロシア史に没頭していたという話も聞く。むろん、ロシア史や正教といった分野に理解のある方からすれば、まったく素人の戯言に過ぎないことは承知の上だ。しかしだからこそ、ごくふつうの日本人の感覚をもってこの無謀な挑戦をしてみたい。

いま、ふつうの日本人が試されるとき

ロシアがウクライナに侵攻したことによって、ただでさえ疲弊している日本人にも、さらなる重圧がかかり始めている。もっともわかりやすい部分は物価上昇だ。しかし今後じわじわと日本人を絞めつけてくるものはそれだけに限らない。いま、我々ふつうの日本人が、大国による軍事侵攻をどのように考え、どのように振る舞うかによって、5年後、10年後の国際社会の中での日本の立ち位置が決まり、我々の暮らし方を決めていくことになるのではないだろうか。

佐渡金山とキリシタン遺産から見えてくるもの

2022年1月末、政府は佐渡金山の世界遺産登録へ向けて、推薦の手続きを進めると発表した。隣国からは強い不満が示されているという。華やかなイメージのある世界遺産にも、人々のさまざまな思いが絡んでくるようだ。筆者はこのニュースに接したとき、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」との、ある共通した視点に思いが至った。

不自然にきれいなお姉さんは、好きですか。

むかし、ある家電メーカーの広告で使われていたキャッチコピーをご記憶の方も多いだろう。平成の半ばぐらいからだろうか、「きれい」の実態はあくまでも見る人と見られる人の間の「中間存在」を前提としている場合が多くなってきているようだ。この意味でのきれいは「いっとき物語」としては華々しく存立するのだけれども、これが中間存在のない状況に置かれたとき、途端に滑稽なものとして浮かび上がってくる。

感動にかすむ問題意識

オリンピックに続いてパラリンピックが閉幕した。どちらにも感動を呼ぶ多くのシーンがあった。選手はもちろん数多くの支援者、関係者のひたむきな努力があった。感動に震えた人、涙した人も多いはずだ。しかしその感動によって現状に対する問題意識が萎えてしまっているとすれば、それは操られやすいタイプといえるかもしれない。

「復興世代」の思い込み

報道番組内のスポーツコーナーにおいて不適切な発言があったとして、元プロ野球選手で野球評論家の人物が謝罪した。しかしこの人物に限らず似たような事例がずっと以前から続いている。いわゆる「団塊(の)世代」とその少し前の世代の一部には、おそらく本人たちが「人生の確信」として信じて疑わない「激しい思い込み」が存在している気がしてならない。と同時にそこには、それなりの事情があるのではないかとも考えている。