「コロナ令和」と関東大震災のアナロジー

新型コロナの混乱がこのまま継続、あるいは拡大してしまうと仮定した場合、私たちは関東大震災後の流れに学ぶことがあるかもしれない。日本人は令和でも同じことを繰り返してしまうのか。それとも100年前より少しは成長したところを見せられるのだろうか。
※本稿中に被災状況を描写する文章があります。
INDEX
- なぜ今、関東大震災なのか
- 関東大震災、その社会背景
- 関東大震災、その後に起きはじめたこと
- 令和も日本人は成長しないのか
- 猿ではない、人として
なぜ今、関東大震災なのか
現在コロナ禍で様々な困難に直面する日本。そのきっかけは海外由来の感染症ウイルスであるが、その結果としてこれまで見て見ぬふりをしてきた様々な問題が、いっせいに表出してきたかのような感がある。いまそれらを列挙しようとしても、すべてを挙げきれないほどだ。
そして「経済も大事、命も大事」という誰にでもわかるような当たり前のことが同時に両立しなくなった現実に直面して、我々は不安と苛立ちを覚えている。
表出している問題の一つに、いわゆる「医療崩壊」がある。これはすでに一部において始まっていると筆者は考えている。
コロナ患者はもちろん、コロナ以外で医療が必要な人々にも影響が出始めていることは、多くの医療関係者が指摘していることだ。さらに医療を提供する人材が、様々な理由でその仕事から身を引き始めている。我々はしばらくの間、これまで通りの医療を受けられるかどうかわからない期間を生きることになる。
自分や家族が交通事故などでケガをしたり病気にかかったりしたときなど、当然受けられるはずだった医療サービスが、決してそうではない状況になってきたということに、正常な緊張感を持たなければならない。
もちろん事は医療体制の問題だけではない。様々な理由による生活破綻も深刻な問題だ。
本稿では、「ただでさえ不安な時代に投げかけられた深刻な出来事」という視点で、関東大震災とその前後をいま一度検証し、我々自身が誤った方向へ突っ走ってしまうことのないよう考えてみたい。
関東大震災、その社会背景
関東大震災は1923年(大正12年)の9月1日に関東地域に発生した大地震である。今から100年近くも前の話だ。今日ではこの9月1日は「防災の日」として国民的に防災意識を高める日となっている。
このときの地震の震源は相模湾の北西部、マグニチュードは7.9、最大震度は現在の尺度で6強~7で、これが東京・横浜を中心に1都6県の広い範囲で観測されたという。ちなみに東日本大震災ではマグニチュード9.0、最大震度7である。
死者・行方不明者については、東日本大震災では約2万1千人と言われるが、関東大震災ではその約5倍にまでのぼっている。
ここまで多数の人が犠牲になった大きな要因は、木造家屋の火災と言われている。加えて11時58分という発生時刻は、まさに昼食の調理をしていたタイミングと重なる。現在のように安全なガスコンロや電磁気を応用した調理器具などあるわけはない。広い地域で一斉に火の手が上がったと想像できる。
いま東京・墨田区にある都立
しかし悲惨なことに、震災当日の夕刻までにここへ避難して来ていた約4万人のうち、じつに3万8千人が熱風や大規模な火災旋風に巻き込まれて焼死している。
地獄絵図というほかないだろう。まるで廃車ヤードのようにうず高く積み上げられた焼死体の写真などは、テレビ放映の際はたいてい加工される。
現在この公園内には、関東大震災による遭難者約5万8千人の遺骨を納める東京都慰霊堂が建っている(昭和5年完成)。
この大震災では警察署や新聞社も被災し、ほぼその機能を失った。まだラジオすらない当時、人々は世の中の情報から切り離されただけでなく、日常の治安にも怯えるような状況に追い込まれたのである。
さて、このときはどんな「時代の空気」が漂っていたのだろうか。簡単にポイントを列挙すると次の通りとなる
- それまでの侵略戦争や事件などによって、日本は周辺諸国の恨みを買っている状況だった
- 第一次世界大戦が終わって間もなくであり、経済的には「大戦バブル」崩壊後の戦後恐慌の時期であった
- スペイン風邪(その当時の新型インフルエンザ)の猛威によって約38万人(内務省統計)の日本人が死亡した4年後だった
- 8月24日に内閣総理大臣の加藤友三郎が病死したばかりのタイミングであり、総理不在の政治的空白状態であった
- そのほか、大正天皇の病状悪化、原敬首相の東京駅での暗殺、ワシントン海軍軍縮会議で日本の戦艦保有が6割に制限される、など
つまり近隣国からは恒常的な恨みを買っている状況で、経済は悪化、よくわからない病気でたくさんの人が死んでいったという時代であり、人々は何とも言えない不安と恐怖に包まれていたといえる。
そこへ大規模な震災、関連火災が発生し、警察は機能を失い市中の治安は悪化した。法も秩序もない状態である。
震災の被害も覚めやらぬ翌日の9月2日、急きょ山本権兵衛(ごんべえ/ごんのひょうえ)を第22代の首相とした内閣が組織される。赤坂離宮に急ごしらえのテントを張って認証式を行うものの写真撮影はできず、歴代で唯一認証式の写真が存在しない内閣となっている。
認証式を終えた山本は、同日直ちに戒厳令を出す。警察が機能していない混乱状態の中では、治安の維持が真っ先に優先されたのだろう。
もともと不安に覆われていた社会に、こういった大規模な衝撃が走った場合、人々は、社会はどんな反応を示しただろうか。
じつは令和のいま、意外と多くの人が知らないとんでもない事件が頻発することになる。そしてそれらは、昭和の戦争へと集約されていく布石のようにも見えてくるのである。
関東大震災、その後に起きはじめたこと
震災後日本国内では、日本人の手によって朝鮮人や中国人が虐殺され始める。
その被害者数は諸説あるが、おそらく少なく見積もっているであろう内閣府の資料でさえ、朝鮮人が1千~数千人、中国人が少なくとも200人、さらに間違えられた日本人(地方出身者など)が約60人というから、本当にとんでもないことが起き始めたのである(内閣府:災害教訓の継承に関する専門調査会報告書)。
いったい何の話だと思う人もいるかもしれないが、つまり「この混乱状況に乗じて朝鮮人と社会主義者が結託して、井戸に毒を投げ込んだり、放火、略奪をしている」というデマが世間を飛び交ったのである。そのため各町内会では自警団を組織し、例えば道をやってきた人に対して「一銭五厘(いっせんごりん)と言ってみろ」などといって発音がおかしければ、竹槍で刺したり棒で叩くなどして寄ってたかって殴り殺してしまったのである。朝鮮人や中国人を助けようとした日本人も同じような目に遭ったらしい。
今のようにテレビはおろかラジオもないし、交通網も発達していないから、地方出身者などは東京周辺で「標準語」をうまくしゃべれない。そのため「おまえは朝鮮人に違いない」と決めつけられて、やはり惨殺されてしまった。
狂気の沙汰という言葉でも足らない気がするが、混乱状況ではこのようなデマが大きな影響力を持ってしまい、結果として何の罪もない朝鮮人、中国人、日本人を「皆で協力して」惨殺してしまったのである。
しかし考えてみると、デマだけでここまでひどいことが起きてしまうだろうか(どうも地方の新聞が発信したらしい)。
やはりそこにはバイアスとでもいおうか、こんな惨事につながってしまう素地があったと考えられるのである。それは先述したその時代の状況、背景、空気というようなものだ。
じつは当時の日本は、それまでの戦争(日清、日露、第1次世界大戦)や事件を要因として近隣諸国から恨みを買っているなど、言い知れぬ不安に包まれていた。
震災の6年ほど前(1917年)にはロシア革命が起きてソビエト社会主義共和国連邦(の前身)が成立している。その社会主義の影響を押しとどめようとシベリアへ出兵したが、結果的に世界からはそのことを非難される状況となっていた(それでも震災の前年まで兵を引かなかった)。
朝鮮半島においては関東大震災の13年前(1910年)から日本が統治を行っており、ここにも恨みを買う素地は出来ている。
戦争バブルの崩壊では169もの銀行で取り付け騒ぎが起きたり、「成金(なりきん)」が破綻したりするほどの経済悪化で人々の心が殺伐としている。そんな中たとえば時の首相である原敬が東京駅で刺殺されるなど、世の中は不穏な空気に包まれていた。
こういった状況で大規模な震災が起き、警察も新聞社も機能しなくなっていた中、人々は言わば「情報閉鎖集団」となっていた。そこへ、「朝鮮人が…、社会主義者が…」という情報が投げ込まれるとどうなるか。
関東大震災の被災情報を受けて、当時の中国やアメリカは大量の物資を日本に支援した。それらの物資は横浜港に荷揚げされたという。しかし、日本人がこういった虐殺を行っているという情報を得ると、その国際支援はピタリと止まったという。
令和も日本人は成長しないのか
こうしてみてくると、なにか現代の日本でも似たような構図の現象が思い浮かんで来ないだろうか。もちろん今どき、戒厳令が敷かれて自衛隊や警察機動隊が街を闊歩するだとか、マスメディアやインターネットなどの通信環境が一斉に機能不全に陥るといったことは考えにくい。
しかしこれだけ発達した情報化社会でさえ、デマや、うわさの盛り上がりのようなものによって簡単に人々は突き動かされてしまっている。
傷ついた人たちがその不安を解消しようとSNSへ助けを求めた結果、さらに痛めつけられ、死に追いやられている例もあった。
TVのリアリティ番組の出演者が、SNSでの誹謗中傷が原因とみられる自殺を遂げた事件にいたっては、「おまえは朝鮮人だ!社会主義者だ!」と決めつけて自警団などが寄ってたかって殴り殺した事件とほとんど同じ構図ではないだろうか。
竹槍や棒をスマホに持ち替え、手足による暴力を言葉によるそれに替えただけで、浅はかな思考で狂気の沙汰を実行していることになんら変わりはない。
どうやら、メディアの種類やその存在の有無というよりも、我々日本人の心の構造や思考のクセとでもいうようなものが、こういった事態を引き起こしてしまっているような気がしてならない。
2020年の今年「マスク警察」などと言う言葉も耳にしたが、TV番組に関連したSNSの誹謗中傷も、朝鮮人らを虐殺したことも、その精神に通底するのは「捻じ曲がった使命感」ではないだろうか。
その後も今の日本人の多くが忘れている、あるいは教えてもらっていない「事件」が続く。天皇暗殺未遂事件(正確には天皇ではなく摂政宮であった裕仁皇太子)、体制に批判的な人物やその家族を軍人が惨殺する複数の事件などである。
我々はこういた歴史の事実を、時代ドラマでも眺めるような気持で理解していてはならない。なぜなら令和のいまでも、ほとんど同じようなことが起きうるし、実際に起きているからだ。
令和2年が終わろうとしている今、過去からのたくさんの不安要素が日本に渦巻いている。
もっともベースに横たわっているのは人口減少と超高齢社会の加速であろう。そしてその上に、じつに様々な既存の社会制度のひずみが浮き彫りになってきている。
政府を支援しているのはもはや、既得権益を死守して人生を終わろうと考えている各分野の人間たちであろうことは、正常な問題意識を持つ人ならすでに見当はついている。彼らこそ新しい日本には、つまり若者や子どもたちが生きる今後の日本社会にとっては、まったく迷惑な年寄り連中である。
しかしこれを、捻じ曲がった使命感、正義感で正してやろうというのは、当然のことながら間違いである。
猿ではない、人として
ではいったい、いまの日本に光明はあるのだろうか。
筆者個人はいま、「与党は1党だけでできているわけではない」というところに注目している。
戦後の日本に欠けているもの、これからの日本に必要なものは、「ともに支えあう、この時代のこの国に住む隣人」とでもいう、ゆるくて広い共同体意識のようなものではないかと考えている。そしてその意識を基底に置けてこそ、様々な弱者救済システムや、失敗してもまたやり直せる社会、安心して暮らせる社会というものを実現できる基礎体力が培えると思っている。
つらい時、そばに支えてくれる人がいなければ、手近なSNSを通じて悲劇への道を進むかもしれない。何が問題なのかを自分の頭で考え議論できる力がなければ、使命感に燃えて過ちを犯してしまうかもしれない。
我々は、誰かを見下ろして、
ところで読者は最近、老若男女が集って楽しげに過ごしている空間に身を置いた体験があるだろうか。それは家族親族だけの集まりではない。
そこには体が不自由な人やしゃべりが苦手な人、失敗して落ち込んでいる人、何かにチャレンジしようとしている人、一見その場に相応しくなさそうな風体の人もいたりする。子どもたちもいるし、子どもの粗相に「あわわ」となっている若い親もいるかもしれない。そしてそれを支えようとする人もいるし、静かに優しい笑顔で見守る高齢者もいる。
そこは不思議なほどの安堵感がただよっている時空だ。ここに集う人たちはきっと、幸せとはどういうことなのかを理屈ではなく皮膚感覚で理解していることだろう。もちろんそれは、したたかなビジネス目的で企画された集いなどでは決してない。
令和のいま、こういった場は日本のどこに存在するだろうか。
関東大震災が起きた年の前後、「俺は河原の枯れすすき…」と始める悲しい歌が流行した。そういえば筆者が幼いころは「昭和枯れすゝき」という歌もあった。
しかし「令和枯れすすき」が流行するような日本社会にしてはならない。